Dear 01 怪盗の子

   二、

 長時間、雪の絨毯を見続けていたため眼精疲労により目の奥が痛む。目を瞑り、泥まみれになった指先で瞼に触れる。円を描くように優しく指圧し、マッサージを施す。
 雪は膝まで埋まるほど積もっていた。次の一歩先は“道”なのか、それとも“崖”なのか。誰もが判別することが難しい状況だ。
 それでも凪は冷たい空気を肺まで取り込み、呼吸を整えながら獣道と予測される場所、、、、、、、、、、を迷いもなく進む。
クッルこっちよ……クッルこっち……』
ヌー、ラルカッタ……そっちはちがうよ……
ンパ、ィハーャ、ベルトト……もう少し左の方を向いて……
 言魂の声は凪の脳裏へ直接語りかけ、行く先を指示する。彼女は疲れた目を閉じる。声を信じて歩いてみる。
 声に頼らないと決意を固めて以降、二度目の使用。現状、この声にすがるしかなかった。三日間で口にしたモノは少量のパンの耳と公園に常設された飲料水のみ。野宿が続き、体力は殆ど残されていない。
 体温だけはこれ以上下げないように意識を向ける。小刻みに震える両手足を少しでも大振りに動かしながら前進する。
 ────痛い。痛い。痛い……。
 不揃いで穴だらけの長靴の隙間から雪が入りこむ。白銀はくぎんは痛覚を刺激し、残された体温を奪っていく。あまりの痛みで悲鳴をあげてしまいそうになる。涙目になりながらも歯を食いしばり、必死に叫び声を堪える。
 ────ここで声をあげたら……もし誰かが近くにいたら見つかってしまう、、、、、、、、かもしれない。
 ここ数日の間に受けた惨めな出来事が脳裏に浮かぶ。また、一日でも早く再会したい大切なヒトを思い浮かべる。負けるものかと鼓舞し、一歩ずつ歩みを進める。
「お父さん……どこへ行っちゃったの……?」

 微かな雲の切れ間より茜色の空が狭間見える。日が沈みきる前までには寝床を見つけ、可能であれば口にできそうな草と湧き水を確保して眠りにつきたいと凪は思う。
「頑張れば……あと二日くらい歩けば……港へ辿りつけるはず。……多分」
 身を隠すことができそうな最適な寝床は……と、思いながらぐるりと周辺を確認する。
 進行方向の先へ向けると、黒の瞳に光が映り込む。赤、黄色、緑など複数色の灯火が揺らめいている。再び眼球を指圧する。目を凝らして今一度灯りを確認する。それが街灯であると確信を持つ。安堵のため息をつけば白い息が立ち上る。
 街灯がある場所はヒトが住み着いている。現状の凪の様子を見た第三者からは路上生活を送る者と思われるだろう。パン屋か惣菜屋へ訪れれば廃棄寸前の残飯を分けてもらえる可能性が高い。食材を確保した後は地下通路の入り口へ向かい“焔のくだ”のそばへ行く。菅の周辺はとても暖かい。“目眩ましの術”を発動させるために言魂を収集する必要はあるが、陣を作れば“凪を狙う者”からある程度やり過ごすことができる筈と、頭の中で今後の方針を固めていく。
 灯りに向かって約二十分ほど森の中を歩く。森から抜ければようやく除雪が行き届いた道へたどり着く。敵の目、、、から欺くためと、近道のために二日半ほど雪道を歩いていた。整備された道に対してどこか懐かしさを感じてしまう。
 服に付着する雪を両手で払い除け、冷えきった足を長靴越しから優しく擦る。まるで冷凍室から取り出した食材のように体は冷えきっており、凪は今すぐにでもお風呂に浸かりたい気分であった。
 軽く息を整え、さらに三十分ほど道路沿いを歩き続ける。ようやく街へ到着する。
 グレー色のレンガで統一された街並みだ。石畳の道を挟んで集合住宅と小売店が軒並み並んでいる。屋根に積もる雪が“雪の街”として印象強く感じさせられる。
 陽が完全に沈む。建物からは次々と明かりが灯されていく。街全体としては暗くは無い。だが、不気味なほど静かだ。
「まずは食べ物を探さないと」
 立っているのもやっとである体を引きずりながら街中を歩く。しかし、どこの店も何かが書かれた木札を下げて営業している雰囲気を感じない。店によっては真新しいインクで何かが書かれた紙を内側の扉から貼りつけている。
 冷たい向かい風が吹く。道ばたに捨てられた新聞紙が風に乗って飛んでいく。

 数十年に一度の大雪。
 気象課は王都を中心に一週間ほど雪の日が続くことを発表した。交通機関は大規模に麻痺する懸念がある。大天気師テ・ウェザードは極力外出を控えるよう、国民に呼びかけた。

 店頭の明かりが次々と消えていく。一方、住宅街は家族団らんの華を咲かせ始める。
 シチューの香り、香ばしく焼けたパンの香り、暖炉の香りが凪の鼻孔をくすぐる。ぐう、ぐうと、腹は悲鳴をあげ始める。
「うぅ……」
 いつも以上に食べ物を求めている。空腹で少量の胃液が食道を通って逆流し始める。溜めた生唾を飲み込むが不快感が晴れることは無い。
 ────突如、強い風が道路沿いに沿って吹き去って行く。凪はその“寒風”に対して嫌な予感がした。穴だらけのジャケットの襟元を必死に握りしめ、ガタガタと身を震わせながら街を散策する。
 何かが頬を掠める。見上げると大粒の雪がたくさん降り注いでいる。
「わぁ! ママ見て、雪だよ!」
 アパートの小窓から無邪気に外を覗かせる女の子がいた。真後ろから母親らしきヒトの面影が映る。
「凄い雪。降ってきたねー。今夜は吹雪になるみたいよ。暖房強くしましょ。お風呂でしっかり体を温めてきなさい」
「はーい」
 ────……え?
 親子の会話を聞いた凪の顔は雪風に負けじと青冷めていく。食料を探している場合ではない。今すぐにでも地下通路へ避難して“焔の菅”を見つけ出さなければならない。今の凪には吹雪を越せるだけの体力は残されていなかった。
 足元へ意識を向ける。マンホールや下水の口らしきものを探す。しかし、いくら探しても地下通路へと繋がりそうな入口が見当たらない。
「どうしよう、どうしよう……」
 不安とな気持ちを口にしながら街中を右往左往する。焦りだけが前面に出てしまう。冷静さを取り戻す余裕は無い。
「────あれ? そういえば……声、全然聞こえない?」
 煩くてたまらない言魂の声は全く無い。視界が大きく歪む。足の力も失われ、金切り声のような音が聴覚を支配する。

 ・・・ --- ・・・

 鴻池こうのいけ組の中に風導士ふうどうし相当のヒトがいる。
 すでに警兵側だけでは対処不能な事案となっていた。嫌みと共に渡された資料には鴻池組側で使用された魔法の種類、銃機器、刃物、行方不明となっている男性一人と、女性二人の資料が含まれている。
 第二課一部隊の隊員の一人────神樂努かぐらつとむは、面倒くさそうにホワイトボードへ資料を貼り付ける。
「行方不明者はもしかしたらバラされているかもしれねーっと。早急な事実確認が必要だが敵の中に魔術師がいる可能性が高くて警兵だけでは迂闊に進められない……か。しかも犯人達の居所はわかってねぇみてーだぜ、朝日?」
 呼びかけられた男は気怠げに体を起こす。共有されたファイリング済みの資料と紙製のコップを寝そべっていたソファーのそばにある机上へ置く。努の元へ寄り、難しそうな表情を浮かべながらホワイトボードへ貼られた情報を確認する。
「これ、本当に全部の資料共有されてると思うんだぞ?」
「それ、俺っちに聞く? 学年二位さんよ?」
「成績は関係ねーぞ」
 思考としては阿呆と自覚している努ではあるが、嫌みの台詞と合わせて渡された資料は想像していた以上に少なく感じていた。
「俺らを邪魔してなにが楽しいんだろうな?」
「────大方おおかた、俺が原因だぞ」
 はぁーっと大きなため息を吐きながら朝日は短い髪を掻く。
 横目でコート掛けの側に設置されている全身鏡を見つめる。自身の左頬にある赤の模様。これは生まれつき存在するタトゥーで王族であるこそを証明するものだ。
「先代が亡くなったのは二年前なのにな。蜂須賀はちすかのヤロー、まだ根に持ってんのか?」
「譲れるなら譲っているんだぞ」
 ────同じ隊だったらな……。
 朝日は紙製のコップに残ったコーヒーを一気に飲み干す。コート掛けに掛けた厚手のグレーのジャケットを羽織り、自席の引き出しから貴重品と風導士の証明となる金のネームタグを取り出した。
「調査行くか」
 努はへいへいと短い返事を返す。全身鏡の前に立ち、外出の準備を始めた。