Dear 02 隷代の使用人

   二、

 朝の陽射しが目元を照らす。瞼を少しずつ開いていくと、凪の視界は歪んでいた。目元を拭えば大粒の涙が手の甲に残り、クリアな視界が広がる。
 ────泣いていた?
 さらに目元を擦りながら先ほどまでに見ていた夢の内容を思い出そうと試みる。しかし、瞼の裏に浮かぶ光景は薄桃色一色に塗り潰されたものであった。
 ────うーん……全く思い出せない……。
 起床時、夢の内容を瞬時に忘れてしまうことは誰にでもあるよくある話だ。いつまでも同じことを考えていても埒が明かない。上体を起こし、両腕を天井へ向かって思い切り伸ばす。
 鶯の囀りが愛らしく奏で合う。また新たな春の一日を歓迎しているようであった。
 医療用の寝台から降り立ち、常設された水回りへと向かう。蛇口を捻れば冷水が勢いよく放出される。
 両手のひらで器を作り、水を溜め、涙でカピカピになった顔面を念入りに洗う。右手の甲で左の頬から反対の頬へ向かって、肌に付着した水滴を払う。左手は洗面台のそばに常設されるタオルへと手を伸ばす。濡れた顔面を優しく包みこめば凪の心は清潔感と心地よさで広がっていく。
 布地は柔らかくて肌触りが良く吸水性は抜群。タオルには「コハル謹製」と記された一平方センチメートルほどのタグが付けられている。
 ────普通の生活に戻れたらこのタオル使いたいな……。
 心の中でそのように思いながらタオルから香るお日様の香りと生地の柔らかさを堪能する。
 突如、引き戸式の扉が開かれる。春らしく淡い黄緑色のシャツに白衣を羽織る女性が元気のある挨拶と共に凪へ声をかけた。
「烏羽さん、お早う御座います。準備が整いましたらこちらへお掛けください」
 額にまだ残る水滴を急いで拭きとり、水回りを軽く綺麗にしてから寝台へ戻る。凪を担当する内科医の一人、代永よながに向かい合うように腰掛けて、いつも通りに病衣を脱いだ。
 二ヶ月前の吹雪の日。凪は鴻池組とその関係者に拉致され、性的暴行を受けた。元々、まともな食生活を送ることもできていない瀕死且つ極限状態の中で巻き込まれた刑事事件だ。警兵と里見の活躍により無事に保護されたが、病院へ搬送後、何度も生死の境を彷徨うこととなった。
 下着を脱ぎ、生まれたままの姿を代永へ晒す。いくら相手が同姓の医療従事者で毎日見られている、、、、、、、としても、他人に素肌を晒すことは顔から火が吹き出てしまうほど恥ずかしいものだ。
 代永は先ほどまで凪が身につけていた病衣と下着に異常が無いかを念入りに調べる。さらに凪の素肌に触れて“触診”という名の身体検査、、、、を進める。些細な変化や違和感も記録される。今日は凪の視界に入らない位置で“後頭部に白髪が一本”とカルテに記された。
 特段、異常と呼べるものは無いと判断した代永は、凪に替えの病衣と下着を渡し、着替えさせてから検温と血圧の測定を始める。測定器の針がゆっくりと時計回りに回転する様子を見届けながら「はい」または「いいえ」で回答することができる簡易な問診を始める。凪は問いに対し、静かに頷いたり、首を左右に振る。
 異常なし。
 そのように判断した代永は、半透明のピルケースを手渡す。ケースの蓋には凪の名前と性別、生年月日、体重が印字されたシールが貼られている。
 蓋を開ける。色や形が異なる五種類の錠剤が入っている。それを口の中へ含み、代永に手渡された水入りのコップに口をつけて喉の奥へと流し込んだ。ゴクリと飲み込み口を開く。何も残っていない、、、、、、、、ことを代永は確認し、問題なく服用ができたことをカルテに記す。
 扉からノック音が四度鳴る。朝食の時間だ。配膳係りがワゴンを引きながら入室する。凪専用の朝食を寝台のそばにある机上へ並べていく。
 今日の朝食はご飯、豆腐の味噌汁、鮭の塩焼き、おろし大根、バナナ、牛乳。
 凪は箸を手に取り、血肉になるように何度も噛みしめ、味わいながら残さず平らげた。
 一日でも早く退院する。当面の目標はここであった。指先ひとつ動かすことができないほどに弱りきっていた状態から始めた治療。医師から万全とお墨が付くまで心身ともに癒やすことに徹した。なぜならば、治療にはお金がかかることを理解しているからだ。入院生活が続けば続くほど、凪は資金面に不安を寄せていた。
 以前、病院職員達の会話を扉越しに聞き耳を立てたことがある。最先端の医療や治療系魔法を施されていることや、相当の腕が立つ医師が担当しているという話がされていた。
 毎秒、膨れ上がっている治療費をどうにかして抑えたい。別の担当医である風間かざまつぐみへ打診したこともあるが、「からの命令で今の治療を止めることも変更をすることも許されないの」と、断られていた。ならば、早く回復して退院することが得策であるだろうと考え、医師の指示は従順に従っていった。
 代永は問診の道具をまとめながら口を開く。
「烏羽さん。明後日、鳴神なるかみ先生が戻られますので、その日に合わせて検査を行いたいと思います。問題が無ければ退院のお話を進めようかと思います」
 ────退院……!
 ついに待ち望んでいた単語が医師の口から伝えられる。瞬時に目を輝かせた凪の様子を見て、代永はそっと微笑んだ。凪に軽い挨拶を送り、代永は病室を去る。

 入れ替わるように配膳係がワゴンを引きつつ入室する。食器を片付け、軽い挨拶を残しながら退室した。
 引き戸式の扉が締まる音に続き、カチャンと、乾いた施錠音が個室内を響かせた。
 薬の効果が効き始め、凪の意識はぼんやりとし始める。寝台に寝転がり、厚手の掛け布団を肩にまで被る。
 ────このまま何も無ければいいな。
 そのように願いながら目を瞑る。両手首と両足首には鍵付きの拘束具が鈍色に光り続けていた。

 凪が目を覚ます頃には陽は傾き、空は茜色に染まっていた。掛時計で時刻を確認すればへびの刻を過ぎている。
 ────……寝過ぎ……。
 目を擦ると小さな目脂が指先に乗る。カピつく目元が心地悪く、朝と同じように洗顔する。額がスッキリすると、今度は口の中が不快感を抱く。これでもかというほど念入りに歯を磨き、口をすすぎ、皺を寄せたコハル謹製のタオルで顔を拭いた。タオルの吸水力はまだまだあるようだ。
 ────あと二刻ほどで夕飯だ。
 十時間近く眠り続けていたため、頭は冴えている。配膳係が凪の個室を訪れるまで起きて待っていようと決める。小さな本棚に近づき、三日前に朝日から新しく借りた本の中から一冊取り出す。寝台に腰掛け、膝の上に本を広げる。

 アーベルの歴史
 神はガスの星を創った。
 神は星を管理するために、あらゆる万物に名を与えた。それは“太古の言葉”や“天地創造の言葉”と言われるようになった。
 神は自らの力の一部を株とし、ガスの星の中で永続的且つ永久的に生み出される力の源を生み出した。それは“言魂フィオン”と呼ばれるようになった。
 神は生命いのち溢れる星を創りたいと思った。神は太古の言葉と言魂を基に“三創神”と呼ばれる三つの生命を創った。
 空を司る竜────デュラルーン天星竜
 陸を司る獣────グラージュ陸星獣
 海を司る鯨────ポセヴォア海星魚
 三創神は各々で力を奮う。瞬く間にどこまでも続く空と、広大な海と、巨大な一つの大地ができあがった。ガスの星は蒼き美しき星────アーベルとなった。
 星は太古の言葉と言魂で満たされた。環境に順応した進化と繁殖によって数多の生命、数多の動植物が姿形を変え、増えていった。
 その中でもヒトは有能であった。神はヒトの力で“星の繁栄”を試みた。
 神の力を備えた特別なヒトを創った。彼らは人々を先導し、魔法を開発し、集落を創り、文明を創った。
 星が賑やかになり始めた頃、気まぐれな神は大地を七つに分けた。東側の一番大きな陸続きの大陸はソルトニア王国と呼ばれるようになった。西側に集まった四つの諸島は総じてビリアン帝国と呼ばれるようになった。
 残り二つの大陸はそれぞれ北と南の極地まで大陸移動し、大地は氷で覆われ、ヒトが住むには厳しい環境へと成り果てた。

 まだまだスラスラと読めるレベルまでには達していないが、標準語で記された本をユックリと読み込んでいく。
 凪は不思議と心の中で懐かしさが広がっていく。
 目を瞑る。頭の中で何やら映像が浮かび上がる。
 高層の建物が立ち並ぶ。グレーに統一された人工的な地表。車輪が着いた乗り物はエンジン音と鳴らして走り回り、人は皺一つ無い黒地の布に身を包んで昼夜問わず行き交っている。
 ────貴方が創りたかった世界は……。
 無意識に何か疑問を投げかけようとする。
 突如、意識が現実へと戻る。瞬きを繰り返し、ブンブンと音を立てるほど勢いよく左右に首を振る。
 ────今のは……何?
 凪はどこか違う世界線を見ているように感じた。見えてきた情景を思い出そうとする。夢でも見ていたのか、全く思い出すことができない、、、、、、、、、、、、、
 ────今、見たばっかなのに……。
 残念そうに眉を下げていると、コンコンコンコンと、四回ノック音が鳴る。続けて引き戸式の扉が開かれると、水色の制服に身を包む看護師の女性が個室へ入ってくる。
 ────見たことが無いヒトだな。
 看護師はワゴンを引き、凪の寝台のそばへと近づいた。
「烏羽さん。言魂の乱れが見受けられましたので一旦に横になっていただけますか?」
 体に酸素を入れますのでと、付け加えながら看護師は吸入マスクを手に持つ。
 従順に寝台に横になり、看護師にされるがまま、吸入マスクを口元に取り付けられた。

 凪の視界は一気に曇りがかった。